田村光昭氏の「最上級麻雀」に以下のような文章がある。
何を打つか――打ってかぶり、その責任の所在を当人が身を持ってあかし、
そして半歩前進する。決してひねり技でその場をつくろったりしない。
ゆっくりと長い歳月をかけて歩んでいくのである。
だからこそ「勝つ」ためにきゅうきゅうと腐心するのではなく、
「負けない」ために小技巧を乗り越える思想を獲得すべきなのだ。
あなたはこの文章を読んで、何を感じるだろうか?
今から30年以上前に出版された本の一節だが、
色褪せることなく麻雀の本質を端的に表している。
そればかりか、麻雀のスケールの大きさをまざまざと表現していて、感じ入ってしまう。
昭和時代の麻雀戦術書を最近読み返す機会があったのだが、
特に感じるのは内容が濃くて読みごたえがあるな、ということである。
とにかく最近出版されている麻雀戦術書は牌画に紙面を割くことが多いせいか、
おしなべて文字数が少なく、20分とか30分とかで読み終わってしまう。
1500円ぐらい出して買う本としては物足りないな、と思ってしまう。
阿佐田哲也氏の「Aクラス麻雀」にしても、田村光昭氏の「最上級麻雀」にしても、
安藤満氏「麻雀絶対に勝つ定石」にしても、一晩では決して読み終わらない豊富な内容があり、
それだけ時間をかけて作ったということがうかがえる。
いってみれば、長い年月をかけて獲得した技術を指南するといった感じだろうか。
時代が変わったと言えばそれまでかもしれないが、
一冊の本にかける情熱が今の時代のものよりはるかに大きいのである。
そもそも、麻雀は文系出身者の嗜好するゲームとして広められていった経緯があり、
戦術書にも文学的・感覚的な表現が多かった。
「ツキ」や「流れ」の存在もその一環として存在しており、
小説やエッセイのような感覚でさらっと読み進められるのが、当時の戦術書の特長だった。
ところが、ネット麻雀の普及ととつげき東北氏の出現によって、
デジタル革命ともいうべき、科学的麻雀観が大勢を占めるようになった。
数理や確率など根拠のあるもの以外を論じることがはばかられるようになり、
麻雀は文系出身者から理系出身者へのゲームへと様変わりした。
文壇が麻雀というゲームを自由に論じることができない環境へと追いやられてしまったのである。
科学的麻雀観は確かに、麻雀の技術向上において大きな貢献をした。
これはまぎれもない事実であり、かつそうあるべき事態であったということもできる。
しかし、一方で麻雀の自由な表現は奪われてしまった。
主観で語るすべての表現は切り捨てられる、そういう環境が生まれてしまった。
経済学、経営学、政治学などすべての学問において、
数理学が主流となる時期が確かにある。
しかし、どの学問においても過去の主張が見直される時期が来る。
折衷しながら新しい論が必ず出てくる。
さながら現在の麻雀は、「数理麻雀学」が主流の時期である。
しかし、俺は思う。
不完全情報ゲーム、かつ対人(しかも3人)ゲームである麻雀が、
「数理・確率」という枠のみでくくれるほど底の浅いゲームだろうか?
未知の何かに立ち向かうような、
もっとスケールの大きい壮大な何か、麻雀とはそういうものではなかったか?
名のある作家がこぞって目に見えない「ツキ」について語りだす。
これは麻雀の本質を理解していない滑稽なこととして一笑に付す、それはあたりまえのことだろうか?
俺はそうは思わない。
麻雀は人知を超えてスケールの大きいものだからこそ、
それに付随して想像力をかきたてるものなのだ。
伏せられた牌に思いを馳せるからこそ、
人間の想像力は無限に広がるのだ。
科学的には不確かなことだとしても、
新たな思いを紡ぎ、そして繋ぐことは人間において非常に重要な、発展性のあるものだと俺は思う。
これが将棋だとそうはいかない。なにしろ全部見えているのだから。
結局何が言いたいのかというと、
麻雀は自由な気風のゲームなのだから、
もっと自由に表現してもいいのではないかということ。
ツキについて語ったり、
オカルトについて語ったりすることを話にならないと切り捨てずに、
それも麻雀の魅力の一つだと寛大な気持ちで受け入れる。
そうすることによって、麻雀のエンターテイメント性は向上するし、
個々人がもう少し伸び伸びと麻雀に接することができるんじゃないかなあと思うのである。
最近の若手プロの出版物を見ると、
何かのどの奥に物が詰まったようなそんな窮屈感を覚えて面白くない。
麻雀は科学的でも人間は非科学的なんだから、
言いたいことを思いっきり伝えた方が、書く方も読む方も楽しめるのではないかと思うのである。
今こそ、自由な麻雀思想が見直される時期ではないだろうか。