2016年09月25日

ブログネタとオカルトの価値観

tenhou.23114.jpg


このメモはブログ用に作成したネタの一部である。

リーチに対して無スジが危険であるように、
麻雀の最適解というのは、似たような場面で似たような打牌選択となることが大半だ


まったく同一の場況であることなど、確率的にはほぼありえないわけだが、
かなり類似した場況となることも少なからずある。

麻雀打ちというのは過去に積み上げてきた経験から、
必死にその答えを探す作業を無意識的にしているものだ。



これは将棋でいうところの「定跡」であるが、
麻雀における定跡は未だ整備されているものが少ない。

私は自らの経験を通じて、
道端に転がっている砂利をどかし、
快適な歩を進められるように、「麻雀の道」を整備していく所存である。


私の麻雀スキルは、現在のところ、
2の16乗=65536通りある。


スルースキルだけでも、2の10乗=1024通りとなっている。

これをすべて伝えきるとなると一生涯の作業となってしまうが、
少しずつ伝えていくので皆さまの一助となれば幸いである。



今号の近代麻雀2016・10・15号の藤田晋さんのコラム、
「仕事が麻雀で麻雀が仕事」にはっとさせられることが書いてあった。

その部分を以下に抜粋したい。

神頼みのようで、自分の社長がオカルトなものに頼っているとすれば少々不安な気がしますが、
不思議とそういった人の会社は好調であることが多いです。
そして好調な社長の話はみんな信じやすく、真似したくなります。

でも、実業の世界と同様、強い打ち手のオカルトはその人だけのものであり、
真似できるものではないし、同じ価値観を人に押し付けてはいけないものだと思います。

超高学歴の頭がいい人が会社に入って苦戦する多くのケースは、
そういった力を評価できず、問題に対して正しい答えを出すことしか知らないからです。
ビジネスの世界では、デジタル思考だけでは必ず行き詰まります。


実業で結果を出している藤田さんのコラムだけに非常に説得力があり、
いつも感心させられる。


私の理論の中には、時折流れ論のようなオカルトめいたことが書いてあることもある。
トイツ場のシャンポン受けなど、人によってはオカルトだと思うだろう。

このブログを続けていて特に思うのは、
麻雀において感覚的な部分を言葉にすることの難しさ、
そして感覚的な部分ほど他人に伝わりにくい
、ということだ。


これは同じく麻雀について書いたことのある人なら誰でも思ったことがあるだろう。


コメントを見ていて、比較的同じ感性の人でさえ、
あまり言いたいことが伝わってないのかな、ということが少なからずあった。

アナログな部分はまだしも、オカルトな部分は書きすぎると、
逆に読み手を混乱させる恐れがあるんだな、ということを私は学習した



ただ、私はそれを踏まえた上で、
オカルトについてもどんどん書いていきたいと思っている。

なぜかというと、
デジタルとオカルトの狭間に、強くなる要素が無数に含まれている、
麻雀というのはそういうゲームだと私は思っているからだ



藤田さんのコラムにおいて、人間相手にしのぎを削る実業での成功の秘訣から、
やはり人間相手に戦う麻雀で強くなるためのヒントを読み解くことができる。



そして、私は麻雀は「文学」であるとも思っている。


麻雀を表現するとき、
無味乾燥な合理主義的打牌論、そんなものは今後AIがいくらでもやってくれる。

それよりも、麻雀を打っていてほとばしる感情のパトス(パトスって何だ?)、
人間だからこそ、それを色々な言葉で表現し、共感することができる。


デジタルとオカルトの狭間には、
人間の思考が生みだす、無限の可能性が眠っている。

ワクワクしないだろうか?
何を考えようと、言葉にしようとあなたの自由なのである。

因果関係なんてこじつけにすぎない、その通り。
結果論で玉虫色に理論が変化するのは麻雀の特徴だが、
それでは果たして将棋にそんなことができるだろうか?


因果関係を楽しむのは麻雀というゲームに与えられた特権なのだ。

そう思えば、オカルトを語ることには大きな意味がある。


さあ、打とう。そして表現しよう。



ラベル:天鳳 思想
posted by はぐりん@ at 16:58 | Comment(14) | 思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月19日

鳴きのデメリットとスルーの極意

tenhou.5003.jpg

これが現在の俺の天鳳の成績である(特上東南戦赤あり8500戦ジャスト)。

放銃率097に俺の守備的な雀風が表れているが、
フーロ率269に注目してほしい。
これは全体的に見てもかなり低い数値なのではないだろうか?

打ち方は、必ずしも一定というわけではなく、
守備的なのを基本ベースにして、
牌効率に積極的だった時期もあれば、
仕掛けに積極的だった時期もある。

様々な打ち方の変遷を辿ってトータルでこのフーロ率ということは、
どちらかというと俺は元々鳴きの少ないタイプの雀風なのだろう。

今現在の俺は、
フーロ率の高さは必ずしも成績に直結しないと考えている。

ネット麻雀はチップがない分鳴きの有効性はフリーよりも高まるが、
天鳳においてフーロ率が低いまま好結果を出すことは十分可能であると考えている。

また、フリー雀荘の半荘戦や、競技麻雀のタイトル戦では、
フーロ率は高すぎるとむしろ勝てなくなる可能性が高いと考えている。


麻雀と名のつくすべての土俵で、
できるだけ打ち方を変えずに安定した成績を残すこと、これが今の俺の目標である。
そのためには、フーロ率をどの程度の水準に安定化させるか、というのが非常に大きなウエイトを占めてくる。


★鳴きのデメリット

鳴きのメリットと言えば、何といってもスピードに尽きる。
その他様々な鳴きのメリットについては他に譲るとして、
今回は鳴きのデメリットについて考察していく。
具体的には以下のとおりである。


@自分の手の内を晒す

手牌を晒すということは、自分の作戦を相手に晒すということである。
打点、手役、待ちが読まれやすくなり、
対応されると出あがり率は激減する。


A手狭になる

晒した牌は二度と戻すことができない。
自分の手を短くすることは、選択できる牌の種類が減るということ。
必然的に相手の攻撃に対して受ける牌も減る。
つまり、守備力が低下する。


B打点が下がる

鳴いた瞬間、メンゼンを放棄し、リーチする権利と裏ドラを見る権利をなくす。
これによって、打点上昇幅がかなり限定され、
平均あがり点が下がる。


C他家のツモを増やす

一局単位で見た場合、鳴きによって他家のツモは確実に増える。
あがりで早期に決着がついた場合は、このデメリットは露呈しないが、
長引いて終盤までもつれるとこのデメリットが顕在化する。

仕掛けの待ちがある程度読まれている終盤では、
勝負手の入った他家に叩き返されると、直接対決の様相になる。
これがリーチである場合は、打点的にも待ち的にもすでに仕掛け者不利になっているケースの方が多い。

終盤までもつれるとメンゼンが圧倒的有利であるのはこのためだ。


D紛れを起こす

誤解を恐れずに言えば、鳴きというのは流れを変える行為である。
ひとつの鳴きによって、局面自体ががらりと変わり、
好調者のツモ筋がずれたり、本来あがりのなかった者にあがりが生まれたりする。

テレビ対局などを見ても、役満が出たり、劇的な大逆転が生まれたりする実例には、
必ず何か鳴きが絡んでいるケースが多い。
これはおそらくデータ的にも実証できるのではないだろうか。

基本的にはくだらない鳴きで紛れを起こしても長い目で見れば本人に不利に働くが、
第三者視点から、わざと紛れを起こすような戦略も確かに存在する。


★デメリットは鳴いた瞬間に発生する

以上が鳴きによるデメリットの主だが、
これらのデメリットは鳴いた瞬間に無条件で発生する

つまり、ひとつ鳴くことが有効となるためには、
そのデメリットを補えるほどのメリットがなくてはならないと考えるべきである。

具体的には、鳴きのメリットが最も生きるのは、
相手の攻撃が顕在化する前に、自分があがってしまうこと
である。


★鳴きの絶対法則

ここから確実に言えることは、
微妙な鳴きというのは、デメリットを補えるだけのメリットがないケースが多く、
長い目で見たら損をする可能性が高いということである。

特に、くだらない鳴き、必然性のない鳴きは自分以外の他家に必ず利する

これは理論的支柱が曖昧で、科学的麻雀誌には載っていないが、
数少ない麻雀の絶対法則だと俺は考えている。

くだらない鳴き、必然性のない鳴きとはどういう鳴きなのか?
例えば、自分の手牌が進まない一発消しなどは基本的にくだらない鳴きの類であると俺は考えている。
これについては後の日記で個別具体的に検討していく。


★あがりとはピントを合わせる行為

麻雀であがることは、ピントを合わせる行為に似ている。
ピンボケしたままシャッターを切って行っても(仕掛けていっても)、
いい作品はできない(フィニッシュにはつながらない)。

全体のバランスを見ながら、シャッターを切っていくこと。
急所が最後に残っても、それはもつれやすくなるだけで、
仕掛けのメリットを十分に享受できるとは言いがたい。

仕掛けにおいて重要なのは、急所がどこかを的確に見極め、
その急所から捌いていくことであり、これがピントを合わせるということである。

逆に言うと、急所でない部分は鳴かなくても大勢に影響はない。
自分のあがり率がたいして高まらず、鳴きによりデメリットが大きくなると考えられる場合は、
スルーしても構わない、むしろスルーした方が得なのだ

これがスルーをする理由である。


★スルースキルとは

麻雀には状況に応じて様々な戦略があるように、
スルーのタイミングにも明確なシステムが存在する。

スルーした方が得、あるいはスルーしても悪くなさそうという状況には、
確かな理由が存在しており、
それを体系化したのが「スルースキル」である。

今後のブログではそれを個別具体的に検討していく。


★敵を知り己を知れば百戦危うからず

鳴くという行為は隙である。
相手が鳴いたらそれを常に咎める意識を持つこと、
そして自分が鳴くときは隙のない構えであることが、基本であり理想である。

相手の仕掛けというのは、敵を知ること。
自分の仕掛けというのは、己を晒すこと、という前提を弁えておくべきだ。

個人的見解としては、
何をスルーすればいいのかを的確に見極めることができれば麻雀は必勝に近くなる

これが百戦危うからずということである。


★スルースキルの心得

スルースキルを使用するにあたって、以下に心得を示す。
これはスルーの心構えであって、考え方の根本となる部分である。


@スルーして好牌引いたら攻め意識

スルーして好牌を引いたらそれはスルーしたことが正着であることを暗に示している。
いわゆる、ご褒美ツモである。
メンゼンである場合は、リーチを念頭に高く仕上げることを意識する。


Aスルーして入ったテンパイ即リーチ

スルーして入ったメンゼンテンパイというのは、
仕掛けとの利益衡量を乗り越えて得た正着の証だ。
状況にもよるが、これによって入ったメンゼンテンパイは即リーチと行くのが基本である。
相手の仕掛けによって入ったテンパイならなおさらだ。


B迷ったら鳴かない

迷って鳴くというのは、自分でも有利不利の判断が難しいということである。
こういう鳴きは、総合的には不利に働くことが多いのは経験からも明らかだ。
「迷う」という感情を相手に見せることも隙につながり、咎められる可能性が高い。
何もなかったそぶりでツモ山に手を伸ばすのが正解だ。


Cできるだけ鳴き無しにすると効果大

ネット麻雀限定の戦略。
スルーを有効に生かすためには、それを読まれないための準備が必要不可欠だ。
自分の手が鳴くべき状況にない場合は速やかに鳴き無しに設定することが手を読まれにくくするコツだ。
特にファン牌のポンラグは相手に合わせ打ちさせる機会を与えないためにも、繊細な鳴き無しが必要となってくる。


Dスルーは日和るためではなく、鋭い反撃をするためと心得るべし

スルーすることによって、守備力が高まるのは確かだが、
スルーの目的は放銃しないことではなく、鋭い反撃をすることにある。
これをはき違えてしまうと、ただただ地蔵になってしまうことを肝に銘じるべきである。


Eしかし、鳴くべき手は鳴く

鳴くべき手でない手を鳴くのは蛮勇だが、
鳴くべき手を鳴かないのは単なる臆病だ。

鳴くべき手を鳴かないのはむしろ勝てなくなる、これを認識してこそのスルーである。


★スルースキルの効果、効能

それでは、スルースキルを活用することでどのようなメリットがあるのだろうか?

@守備力

スルーすることによって、手狭にならないため、相手の攻撃に対する守備力が高まる。
これはかなり明快なスルーによるメリットだ。
特に字牌の場合は、2枚落とせることで守備力が高まるとともに、落としていくことで自分の手牌がグレードアップすることも少なくない。


A柔軟性

スルーをすることで、様々なツモに対応できるのと同時に、
状況の変化にも柔軟に対応しやすくなる。
例えば、放銃というのは、自分がテンパイに近ければ近いほど起こりやすい現象だ
なまじテンパイしているから放銃するというケースは麻雀には往々にしてある。

急所でなければスルーしてテンパイを遅らせることで、一手の余裕が生まれ、
それによって放銃を回避することができる場合もある。
速いことが最善であるという先入観を取り除くことが、麻雀の大局観においては重要だ


B安定感

@守備力とA柔軟性を伴うことによって、不運かつ致命的な放銃が減る。
これによって、ラス率が下がり、成績の上下のブレ幅が小さくなる

個人的見解としては、
好調時の最高到達点は、鳴き麻雀の方が高く、
不調時の最低到達点は、スルー麻雀の方が高い。


ラス率を低く抑えることが可能になるスルースキルの活用は、
ラスが圧倒的敗者である天鳳においても有効な戦術であり、
順位の分散を大きくしないという意味で、
順位の安定を確保できると同時に、精神的な安定感をもたらす

これは前回日記に書いた、「デジタルのジレンマ」に陥らないための一つの方法であり、
自分の鳴きによって相手のみならず自分自身までも翻弄されてしまうという、
鳴き麻雀最大のデメリットを解消する手段でもある。


さらに、このスルー麻雀がフリーやタイトル戦など、
あまねく麻雀の土俵において成立する可能性が高いこと。

これは、土俵の違いごとに自分のスタイルの根本を変えずに、
わずかに修正するだけですむため、
ブレ幅が小さく、精神的負担が少ないという意味でも合理的であり、
安定した麻雀を打つことにつながる。


以上が、スルースキルを活用することのメリットであり、
フーロ率を抑えた麻雀がスタンダードな戦術となる可能性を示すものである。

次回以降、その具体例を挙げていきたいと思う。



ラベル:天鳳 鳴き 戦術 不鳴
posted by はぐりん@ at 22:29 | Comment(5) | 思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月12日

鳴き総論 デジタルのジレンマ

ひとつ晒せば自分を晒す
ふたつ晒せばすべてを晒す
みっつ晒せば地獄が見える
――見える見える、落ちるさま

『哭きの竜』より、竜のライバル雨宮賢の言葉である。


デジタル麻雀全盛の昨今、
仕掛けの重要性が謳われるようになり、
鳴きの技術というのは近年、飛躍的に進歩した。

バックに形テン、後々づけ、一発消しにツモ飛ばし。

自分のあがり率を最大限に高めつつ、相手の期待値を低くする戦術。
これらは確かに仕掛けの技術を高め、現代麻雀に大きな革命を起こした。


しかし、冒頭の雨宮のセリフはこの麻雀に大きな警鐘を鳴らしている
鳴き全盛の時代にあって、鳴きのメリットは語られるがデメリットはあまり語られることがない。

ファン牌を一鳴きすることは当然だが、スルーするとあたかもあがり放棄のような感覚になる。
愚形でも仕掛けていくのが正義だし、称賛されやすい。
これは、『科学する麻雀』が出版されてからの顕著な傾向だ。

現代麻雀は仕掛けないことに抵抗がある。
ファン牌をポンすることよりスルーすることの方がよっぽど勇気がいる行為なのである。



特上で十段を2回達成した自分の経験から確実に言えることがある。
積極的に仕掛けていく麻雀は、好調時はかなり結果につながるが、
不調時は真逆で、どこまでも墜ちていく。


勢いだけで鯉のように登っていくうちは全て鳴いていっても好結果が出るが、
その仕掛けに逆の目が出始めるとどんどん崩れていって止まらない。
そのうちに自分のスタイルに自信がなくなり、
フォームを崩してガタガタになっていく。


デジタル麻雀を標榜する人は必ず一度はこのスパイラルを体感しているはずだ。
鳴き麻雀は好調時は問題ないが、
一旦不調に陥ると、その体勢を立て直すのが非常に難しいというデメリットがあるのだ。


なぜかというと、鳴きというのは本来メンゼンに比べて不利な行為だからだ。
手狭になる上、打点も安くなりやすく、不調時はそのデメリットをもろに享受しやすくなる


そして、さらに問題なのはデジタルであるその信念だ。
デジタルなら自分に有利な行為と思ったら常に打ち方を変えないのが正しい戦法だ。
それは好調時も不調時も関係がない。


結果が出ないからといって、仕掛けをしないのではそれはデジタルではないし、
不調時でも打ち方を変えないのがベストな選択となるはずだ。
こういう信念が打ち手の感性や危険信号を排除し、フォームを修正できずに大崩れしてしまう。
これがデジタルであるがゆえの悪循環だ。

俺はこれを「デジタルのジレンマ」と名付けた。


★鳴きというのは戦場に自分を晒す行為

鳴くという行為には多大なメリットがあり、
現代麻雀を勝ち抜くうえでその技術を身につけることは必要不可欠だ。

しかし、現代において忘れられている感覚がある。
それは、覚悟である。
敵を斬るのは、斬られる覚悟のある者だけだ、という姿勢だ。


戦場において、自分が有利な時だけ攻撃に参加し、
相手に攻撃された瞬間背中を見せて逃げる。
この戦い方で、勝利を得ることができるだろうか?

その場凌ぎの戦いでは、いざという時に腹が括れないし、
何より敵になめられる。
覚悟が足りないことは隙を見せること、
これは戦場の士気を左右するものであり、麻雀で言えば大局観の部分だ。

肉体的にも精神的にもダメージを最小限にしようとすればするほど、
実はそれに反比例して自分のダメージは増えていく。
なぜなら、敵に与える両者のダメージがまやかし程度のものでしかないからだ。


麻雀において、ひとつ晒すことは、
戦場で待機するか、最前線に飛び込むかぐらいの違いがある


何フーロでも関係ない。
重要なのは、ひとつ、1フーロ目の仕掛けにどれだけ覚悟を持って臨むかだ。


仕掛けの入り方に覚悟が伴っていれば、
リーチに対しておろおろしたり、相手の仕掛けにひよったりすることは格段に減る。
自分の覚悟が相手に伝われば、自ずと相手の反撃をとどまらせることにもつながる。

そして、覚悟が伴っていれば斬られても痛くない。
放銃が痛くない。これは麻雀の大局観において非常に重要なものだと俺は考えている。



麻雀というのは道だ。
そして道というのは全て麻雀に通じている。
武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり。
アカギも似たようなことを言っている。

相手を尊重し、規範に従う。
そして、覚悟を持って鳴く。
これを意識すれば、確実に麻雀のレベルは一段上がることを保証する。


次回以降、「スルースキル」と称して、鳴かない具体例を挙げていく。
そして鳴きが及ぼす作用について詳しく掘り下げていきたいと思う。

最後に、どういう鳴きが良くない鳴きなのか、
そして覚悟がないとどういう結果が待っているのか、
4枚の画像を挙げるのでみなさん自身で考えてみていただきたい。
最終的にラスになった半荘の一場面である。


tenhou.1269.jpg


tenhou.1271.jpg


tenhou.1272.jpg


tenhou.1273.jpg



ラベル:天鳳 精神 鳴き 思想
posted by はぐりん@ at 20:10 | Comment(9) | 思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月04日

わざ降段の是非

tenhou.211.jpg

つい先日まで十段という誇らしい身分にいたのもつかの間、
到達から1ヶ月足らずの現在、九段ポイント45pt/3600ptというていたらくである。


特上の場合はポイント効率が悪いので、
1ラスの損失補填をトップ率で補っていかないと現状維持は難しい。

ところが、トップは運がなければ取れない

段位の性質上、ラスのリスクを顧みずにトップを狙ってくる打ち手も多いため、
ラス回避主眼になるとどうしてもトップ率が低くなってしまう。
これが特上で高段位を維持するのが難しい理由である。



さて、このぐらいのポイントになって取りうる手段に「わざ降段」というものがある。
巷ではこのわざ降段をめぐって様々な議論が展開されているようだ。

今回はわざ降段に関する俺自身の私見について述べてみたい。


わざ降段は確かに、天鳳段位戦の頂点「天鳳位」を目指す上では最も効率のいい行為だ。
ラスが圧倒的な敗者である天鳳において、
自分の名誉をかなぐりすててまでストイックに降段できるそのいさぎよさには、
ある種のかっこよさすら感じる。

わざ降段のメリットを十分理解した上で、
かつ打牌や順位戦略は個々人の自由だという前提は承知の上で、言わせてもらう。


わざ降段は「天鳳」というゲームにおいては正しい行為であるが、
「麻雀」においては正しくない行為である
と俺は考える。


つまり俺自身はしない。
わざとラスをひくなど恐れ多くてできない。


麻雀とは終わりなきマラソンのようなものである。

途中で走るのをやめたり、歩みを止めたりするものが、
最後ゴールテープが見えた瞬間の競り合いに勝てるだろうか?

その瞬間だけに力を出そうとしてもそう都合よくいかない、それが「流れ」というものである。


それと同様に、わざとラスを引くような打ち手に、
最後麻雀の神様は微笑むかといったら、微笑まないと俺は考えるからである。


最強戦の決勝オーラス、あがりトップの局面。
わざ降段をした打ち手にあがりきれる手が入るだろうか?


もう少し科学的に話すと、
麻雀の道義に反する「わざとラスを引くという行為」というのは、
結局その人の疵(きず)になる。

最終最後の局面で、本人が無自覚であろうとそういう疵が深層心理で作用して、
選択ミスをしてしまったり、あるいはその疵を咎められるのではないかと考えるのだ。

とんでもなく非科学的で突拍子もないことを書いているようだが、
案外人間の精神構造などこんな風に脆弱にできているものだ。


だからこそ、常日頃から麻雀においても実生活においても、
仁義を大事にして相手に借りを作らないこと、
自分に嘘をつかずに真摯な一打を放っていくことというのはとても大事なことだと思うのだ。


話が飛躍しすぎて恐縮だが、
結局のところ何が言いたいのかというと、
自分はわざ降段は流れが悪くなるのでやらない、とそういうことだ。


十段に返り咲いたとき、
一番自分で意識していたのは「海より深く打つ」ということだった。

とにかく好調を維持するために、どうすればいいかを自分なりに模索し、
深く打ってそれでラスになったのなら本望という考えに至っていた。

現実は厳しく、結果には結びつかなったが、
このように麻雀に運命論的な考えを結びつけるのも、
興趣があって面白いものである。



ラベル:天鳳 思想
posted by はぐりん@ at 12:42 | Comment(6) | 思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月03日

自由な麻雀思想

田村光昭氏の「最上級麻雀」に以下のような文章がある。

 何を打つか――打ってかぶり、その責任の所在を当人が身を持ってあかし、
そして半歩前進する。決してひねり技でその場をつくろったりしない。
ゆっくりと長い歳月をかけて歩んでいくのである。
 だからこそ「勝つ」ためにきゅうきゅうと腐心するのではなく、
「負けない」ために小技巧を乗り越える思想を獲得すべきなのだ。


あなたはこの文章を読んで、何を感じるだろうか?

今から30年以上前に出版された本の一節だが、
色褪せることなく麻雀の本質を端的に表している。
そればかりか、麻雀のスケールの大きさをまざまざと表現していて、感じ入ってしまう。


昭和時代の麻雀戦術書を最近読み返す機会があったのだが、
特に感じるのは内容が濃くて読みごたえがあるな、ということである。

とにかく最近出版されている麻雀戦術書は牌画に紙面を割くことが多いせいか、
おしなべて文字数が少なく、20分とか30分とかで読み終わってしまう。
1500円ぐらい出して買う本としては物足りないな、と思ってしまう。

阿佐田哲也氏の「Aクラス麻雀」にしても、田村光昭氏の「最上級麻雀」にしても、
安藤満氏「麻雀絶対に勝つ定石」にしても、一晩では決して読み終わらない豊富な内容があり、
それだけ時間をかけて作ったということがうかがえる。
いってみれば、長い年月をかけて獲得した技術を指南するといった感じだろうか。

時代が変わったと言えばそれまでかもしれないが、
一冊の本にかける情熱が今の時代のものよりはるかに大きいのである。


そもそも、麻雀は文系出身者の嗜好するゲームとして広められていった経緯があり、
戦術書にも文学的・感覚的な表現が多かった。

「ツキ」や「流れ」の存在もその一環として存在しており、
小説やエッセイのような感覚でさらっと読み進められるのが、当時の戦術書の特長だった。


ところが、ネット麻雀の普及ととつげき東北氏の出現によって、
デジタル革命ともいうべき、科学的麻雀観が大勢を占めるようになった。

数理や確率など根拠のあるもの以外を論じることがはばかられるようになり、
麻雀は文系出身者から理系出身者へのゲームへと様変わりした。
文壇が麻雀というゲームを自由に論じることができない環境へと追いやられてしまったのである。


科学的麻雀観は確かに、麻雀の技術向上において大きな貢献をした。
これはまぎれもない事実であり、かつそうあるべき事態であったということもできる。

しかし、一方で麻雀の自由な表現は奪われてしまった。
主観で語るすべての表現は切り捨てられる、そういう環境が生まれてしまった。


経済学、経営学、政治学などすべての学問において、
数理学が主流となる時期が確かにある。
しかし、どの学問においても過去の主張が見直される時期が来る。
折衷しながら新しい論が必ず出てくる。
さながら現在の麻雀は、「数理麻雀学」が主流の時期である。


しかし、俺は思う。
不完全情報ゲーム、かつ対人(しかも3人)ゲームである麻雀が、
「数理・確率」という枠のみでくくれるほど底の浅いゲームだろうか?

未知の何かに立ち向かうような、
もっとスケールの大きい壮大な何か、麻雀とはそういうものではなかったか?

名のある作家がこぞって目に見えない「ツキ」について語りだす。
これは麻雀の本質を理解していない滑稽なこととして一笑に付す、それはあたりまえのことだろうか?

俺はそうは思わない。
麻雀は人知を超えてスケールの大きいものだからこそ、
それに付随して想像力をかきたてるものなのだ。

伏せられた牌に思いを馳せるからこそ、
人間の想像力は無限に広がるのだ。
科学的には不確かなことだとしても、
新たな思いを紡ぎ、そして繋ぐことは人間において非常に重要な、発展性のあるものだと俺は思う。
これが将棋だとそうはいかない。なにしろ全部見えているのだから。


結局何が言いたいのかというと、
麻雀は自由な気風のゲームなのだから、
もっと自由に表現してもいいのではないかということ。

ツキについて語ったり、
オカルトについて語ったりすることを話にならないと切り捨てずに、
それも麻雀の魅力の一つだと寛大な気持ちで受け入れる。
そうすることによって、麻雀のエンターテイメント性は向上するし、
個々人がもう少し伸び伸びと麻雀に接することができるんじゃないかなあと思うのである。


最近の若手プロの出版物を見ると、
何かのどの奥に物が詰まったようなそんな窮屈感を覚えて面白くない。
麻雀は科学的でも人間は非科学的なんだから、
言いたいことを思いっきり伝えた方が、書く方も読む方も楽しめるのではないかと思うのである。


今こそ、自由な麻雀思想が見直される時期ではないだろうか。



ラベル:思想
posted by はぐりん@ at 21:10 | Comment(0) | 思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする